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鑑賞の作法

最近、伊坂幸太郎さんの小説を片っ端から読んでいた。彼の小説は僕にとってとっても読みやすく面白い。以前お世話になったお施主さんに推薦してもらったものだ。
小説にも色々なスタイルがあると思うが、氏の文章は構築的だ。最初に綿密な物語の設計図を書いて、適する言葉という素材を入念に吟味し、緻密に組み建てているように感じる。いくつかのストーリーが縦横無尽に交錯するのだが、それらが計算どおりに突如として全体の世界観を構築してゆく・・・。むだなシーンや余分な装飾、説明は可能な限り排除され、シンプルでスマートで、なんだか硬質な球体のような小説だ。

例えば、膨大な文章とページを費やし、様々なシーンと登場人物とその描写による膨大な情報を提示し、それが最初ぼんやりと、だが徐々に全体像に向かって収束してゆくような小説もおもしろいが、それとは対極にあるような、シンプルな構造を持つ物語だ。
この文章をものにするため、氏は膨大な時間を校正と、そして文章、言葉をそぎ落とすことに費やしているのだろう。

小説でも、映画でも・・・、(最近ではもっぱらDVDで、厳密にはDVDでは映画鑑賞とは言わないのかもしれないが・・・、まあ、それはよしとして、とはいっても製作者にとってはまったくよくないことであろうとは思うが・・・、)
小説、映画を鑑賞する際、僕には流儀というか作法がある。それは一人の作家、一人の監督の作品を連続して鑑賞しつくす。すべてを消化するかのように・・・と、まったく行儀の良い鑑賞者だ。

今までそうして小説であれば村上春樹やスティーブンキングに始まり、色々な作家の作品を一気に鑑賞してきた。一人の作家がどのように考え、どのような価値観を元に、そしてどんな技術や比喩を使って、そして製作をしているのか・・・。連続して鑑賞しているとその完結した個々の物語の中だけでなくそれぞれの作品ごとの間に様々な関係が見えてくる。そう、決して残さず、すべてを消化するように食べつくす様に鑑賞すると、もう一つの楽しみが見えてくる。
例えば、映画であれば、キューブリックの作品に出てくる風景のデザインとか・・・、リュックベッソンの作品に出てくる女性はいつもチャーミングだなとか・・・、黒澤明のカメラの動かないし、長いな・・・、とかそんな感じ。

この連続して見るということにも僕なりのルールがある。まづは順番・・・、これがとっても重要・・・。うかうかしていると、名は伏せるが、ある不倫の濃密な恋愛の駆け引きのあとに、大学生の純朴な恋愛小説を読まされるという愚を、はからづとも犯すことになる。そして、この純粋な恋愛小説のほうが格段に良い作品だったりする。もしこれが逆だったらと考えると作者に申し訳ない・・・。

それともう一つ、作家の初期作品は一番最後に読むようにしている。
これは僕が子供の頃からサンドイッチはパンの耳である周囲まづ360°を制覇してから中央の本丸に進行する・・・、いわゆる貧乏性といわれるゆえんだが、まあ、初期の作品が最も良いということは、押しなべて事実に近いような気がする。だから一番最後に頂く・・・。

建築でもそうだ。京都東山へはなにわともあれ、まづ早朝に行くとか・・・、ローマに行って、まづはミケランジェロの作品を年製作の順番に見て回るとか、フィレンツェではルネサンス期の作品を年代順に見るとか・・・、パリでは新古典からアールヌーヴォーをまとめて同じ日に見るようにするとか・・・、はやる気持ちを抑えて・・・、間違っても同じ日にコルビュジェを見るとか、はなたまジャンヌヴェルを見るなど言語道断だ。だからせめて日を変えてみる。ということ。

見ることよりも、それを見る方法、見方がより大事だと思っている。それにより、見え方はまったく違うものになってくるから・・・。

見方を考える・・・、考え方を考えるということが必要だと思っている。