Column

魅力的であるということ

魅力的であるということはどういうことなのでしょうか。普段、ごく自然に我々はあの人は魅力的だ、あの建築は魅力的だなどと言っています。それは例えば、ほかにはない、または他の人は持っていないような図抜けた何かをさして言っている場合が多い・・・。頭がいいとか、センスがあるとか、きれいだとか。おしゃれだとか。偉いとか、かっこいいとか、かわいいとか、やさしいとか、・・・そんな類のことでしょう。
いろんな装飾を削ぎ落としたとしても、いろんな錯覚を剥ぎ取ったとしても、最後まで残り続ける魅力とは何でしょうか。
はたして本当にそれが魅力なのだろうかと思いつつもそうして、「魅力的に見えるから」、という思い込みの先で、新たな魅力を演じ模倣してゆくだけなのではないでしょうか。
そのときに、それが正しいかどうかは、それほど問題にはならないでしょう。正しくても間違っていても、それをそのように受け取った人にとっては、「そのように見える」、ということは本当以外の何ものでもないはずですから。
人の魅力は、だから、その人自身によってというよりも、それを受け取り、受容する他者の中で、事後的に育まれてゆくといえます。我々の言う魅力とはそんなものなのではないでしょうか・・・。
翻って、時に私達は内面の魅力についても話しをすることがあります。心がとってもきれいだとか、優しいとか。内面の魅力が外面にも現れているとか、・・・。我々があるものに対して魅力を感じる際によく、内面の持つ魅力に引かれたなどと勿体つけた説明をすることがありますが、魅力とは内面や外面に分けて論じられるものなのでしょうか。魅力的なものに対して、外面だとか、内面だとかというようにその魅力について説明ができるということ自体がおかしいのではないでしょうか。なぜならそれは、それについての説明ができるということは、そのものに付帯する何らかの要素によって魅力的であると判断したり評価したりしていることにつながるのだから。取替えや分けて考えることのできない、そこにしかない何かを魅力として感じていることにはならないから。
外見だって、単純に最も外側にある内面なのです。
魅力的であるということがすでに社会の中で説明がしやすいように物語や既成の価値観の中に押し込められているのではないでしょうか。そう、それはあたかも社会による演出でもあり、潤滑剤であるかのように。

色彩はある光の波長を吸収しある特定の波長だけを反射したときに起こる現象です。つまり見えている色はほんの一部の反射でしかない、結局人間の知覚など小さなレンジの中でしか発揮できない、そしてその狭いレンジの中であらゆる表現が行われています。

ある哲学者が言っています。イマジネーションとは無から何かを生み出す力ではなく、こわばった形式や常識、形式の中でひずんでしまった物事の本来のイメージを本来のイメージに引き戻す力なのだと。

我々は魅力ということにあまりに翻弄されていはしないでしょうか?そこにはイマジネーションがあるのでしょうか。

自らが内面に抱える潜在的な何か、どこにでもあるような何か、それらを新しい回路や関係性によって表出させること。
例えば恋人同士や親子になって始めてお互いの表面に湧き上がるような魅力、
ありふれていたけど時に突然に輝きだすような人と人との交わり、
風景の中でその相乗効果により互いに魅力的になるような建築、
はたまた住まい手との相乗効果によってさまざまに表情を変え魅力的になるような空間。
紋切り型のイメージにより定義されることから逃避するように、さまざまに表情や定義を変えてゆくような魅力。そんな想像力のある、そしてどこにでもあるような日常的な魅力的なものにこそひかれる自分でありたいと思っています。