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妥協する

ある、高名な写真家、編集者が雑誌のインタビューで言っていた。
氏の仕事は建築をただひたすら観る事であると・・・。観るという漢字、そう、世界観、宗教観、観念、観察、観護、さらには観音様に至るまでに使われる、見ることによって世界を一挙に内なるものにせしめんと、そう見ることによってすべての妄想を現実化せしめんとする企てを意味する壮大な字だ。

そして、その氏が言っていた。

もちろん建築が実現するまでには、建築家に対し様々なハードルがあることは理解している。建主、敷地、法律、コスト、予条件等等、建築を制限する様々なルールが存在し、それこそが建築が純粋な芸術とは違うといわれている所以だ。

だが、氏はそんなことを理解しながらも、建築はそこに建ち上がっているさまがすべてだと、地面の上で人々に与えている印象がすべてであると。コストや、法規、工期の条件なんかで達成できないこともあろうかと思うが、そんなことをいちいち説明しながら建築が建っているのではない。だから、建築はそこに建っている姿以上でもなく、以下でもなく、あるがままに評価するという。

我々も、常に工期や法規、コストなどの様々な条件と対峙しながら、その条件の中で最大限のパフォーマンスをできるよう、設計している。

そんなときに、良く脳裏をかすめる単語が妥協・・・。例えば、もう少しコストがあれば、窓枠の上部にシャープな水切りをつけることができて、外観もきりっと締まった表情になったのに・・・、とか、開口部をサイズを制限する法律に対し、審査機関がもう少し幅広く解釈してくれれば大きな開口部が可能になり、シンプルで明るい空間が実現できたのに・・・、とかこんな具合だ。

だがそれは現実ではない。実際できたかどうかはわからない、単なるエクスキューズ・・・、仮定の話でしかない。

もう少しコストがあれば・・・、もう少し審査期間が幅の広い法律解釈をしてくれれば・・・、自分はもっと素晴らしい建築ができたのにということにとは、それはあくまでも仮定の話であって、コストがあったら自分はもっとできたかというと、それは自分が思っているだけなのであって、事実そう願ったところでそれが実現したかどうかはわからない。

だったら、そんな制約とは仲良くすることに限る。時にそんな制約を逆手にとって新しい空間や工法が提案できたら最高だ。コスト厳しければ厳しい中で、そのなかで可能な、いやないからこそ可能となるような、そんな建築を造らなくてはならないのだ。

制約が多ければ多いほど、それはそれで楽しい・・・と思う。そうもしかしたら僕はマゾヒストなのかもしれない、いや、単純にそう思うと楽になれるからかもしれない・・・とも思う。果たしてどうなのだろう。来年、もう少しロードテストをしてみよう。