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妄想してみる

建築の設計を仕事としてから今までに、幾度となく老人介護施設の設計に携わる機会を得る機会を得たことがある。ちょっとややこしいが、つまりは設計提案のプレゼンに参加したということだ。

その記念すべき最初の機会。我々は、自分の理想として・・・、少しでも広いスペース・・・天井の高さ・・・大きな窓・・・、そんな日常を少しでも快適に過ごしてもらうべく可能な限りの想いを盛り込んだ建築を提案した。もちろん施主の要望と条件を加味した上での提案だ・・・。そして意気揚々とプレゼンを作り事業主にプレゼンテーションをした。

オーナーは提案を見るなり、君は何もわかっちゃいない!!!、と電光石火のシンプルな決定、すなわち没を下した。

オーナーいわく・・・君の仕事は一部屋でも多く、仮に個々の部屋の環境が少々ダメージしても一人でも多く、また適切な値段で入所していただくことが重要だ。然るに、法の許すぎりぎりの範囲で一部屋でも多く部屋数を確保することが君の仕事だとのこと・・・。
言われてみればもっともな話・・・少しでも多くの方に良い条件で施設を提供するということ、ではあるが・・・、消化しきれない何か、そう、少しでも良い環境とスペースの提供・・・。そしてそれは背反するアンビナレンツなテーマになっていた。

そしてその後は不幸ではあるが当然の連戦連敗・・・、試行錯誤の連続。
そして約2年ほど前、同様の施設の設計依頼があった。今度こそ、そしてこれが最後、という想いと、未だどこかで腑に落ちていない、まとめ切れていない自分があった。

然るにとりあえず我々はまず様々な同様の施設を徹頭徹尾見学、観察し、時に介護の手伝いを現場でさせていただく事から設計を開始した。

その作業の中で僕らは、介護をされる、介護をする状況に美学、(それはアートではない。つまりアートとは見られることを前提とするばかり恣意的な何か、不必要なものが混じってくることがあるから・・)ここにはただリアルな現実、そしてそこに必要な何かというものがまざまざと感じられるようになっていた。そしてさらには、我々は施設に必要なリアリティーという美学をそこに見出すまでになっていた。

そう、リアリティーこそが美学、さらには設計の源泉であると・・・。
そしてその頃には、照明計画、手摺形状ひとつで・・・、はたまた壁のコーナーのディテールひとつで今までにない施設のありようを血肉化していた。
だが、残念ながら歴史は繰り返す。我々の提案は受け入れられながらも、設計が煮詰まりつつあった時点で、またしても丁重かつ慇懃にご辞退願われてしまった・・・。残念だが、これは進歩的、前進的、発展的、かつ能動的脱落ということにしておく。

それから月日が流れ・・・今ではその敷地に我々の設計ではないが立派な建築が鎮座ましましている。先日意を決してその建築の前を通過したら、窓にはたくさんの照明が灯り、これでよかった・・・、否、これが良かった・・・と、入所した皆が幸せそうに暮らしていているであろうことがただ素直にうれしかった。
だが・・・、でも・・・、同時に、もし我々が最後まで設計できればもっと・・・。という気持ちが脳裏をかすめる。

これはエゴなのか?
アインシュタインが時間と光は均一には流れないと論破したように・・・、
ガリレオがそれでも地球は回っていると喝破したように・・・、
僕も厚顔不遜にも・・・我々ならよりリアルに必要な施設、そして美しい建築をモノにできる!!と妄想してみる。

と同時に、でも、あと2、3回は没をくらわなくっちゃな・・・没こそが僕を進化させてくれる・・・と少しだけ謙虚にもなってみる。
妄想は僕の仕事の一部ということでご容赦頂きたい。
ただ、妄想とマスターベーションは断じて違う。これも20年来の僕の大きなテーマであり、確かに未だ議論が足りないが・・・この二つの接点はありえない。

このテーマはあまりにも深く壮大なのでまたの機会・・・。