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素性と組成

わが家には子供の頃より親に教わった家訓が2つある・・・。

ひとつは、政治、宗教の話は人とはするな・・・。
もうひとつは、飲み屋で値段の表示のない茶漬けは食うな・・・。ということ。

2つともかなり深いが、この教えに逆らったことは未だない。
宗教、政治は人それぞれ本当に多様性があるものだから、きちんと勉強していない限り議論したところで、良い関係を保てることにはならないということ。宗教は勉強とは違うが、何故無信仰であるから・・・。

茶漬けについては、食べてしまってから”この茶漬けの出汁は鯛一尾を使った”ということで法外な値段を吹っかけられる可能性があるから・・・、つまりどんな食材を使ったか、どんな調理によったものなのか、値段もわからないものは食うなということである。
最近、何とか偽装の問題が各方面で噴出している。もちろん、プロとして信義に反することで同情の余地なしなのだが・・・、翻って自分も消費者として手軽で、安価なものを無批評、無批判で求めすぎたという側面もなかろうか・・・。手軽で安いもの・・・、それを実現するには当然どこかに無理をしてゆかなくてはならないし、その過程で本意ではないもうひとつの無理をしてしまう事も冷静に考えればイメージできなくもない。

僕にとって、建築には2通りある。ひとつは身をゆだねることができる建築・・・。もうひとつは、それ以外・・・。身をゆだねることができる建築の中にも2通りある。ひとつは安心して建築内に入ることができるもの、もうひとつは、万が一何かがあってもその建築となら心中しても良いと思えるような素敵な奴。

身をゆだねることができる建築とは・・・、例えば僕の事務所のある建築についてはその設計者から、構造エンジニアまで知っている。彼らの過去の作品を俯瞰すれば彼らの人となりは明瞭、安心して身を任せることができる。つまり素性がはっきりした建築は安心である。その他は、いわずもがな・・・、謙虚に・・・、僕の設計した建築である。

もうひとつの身をゆだねることのできる建築、例えば、大昔にケルンの大聖堂に登ったとき、ここから飛び降りても良いとさえ思えた。まさに狂気の塔頭、ゴシック建築の金字塔だ。ドイツの灰色の空に文字通突き刺さっていた。いや、もはやどちらが天でどちらが地かすらもわからない、まさに神に触れんばかりの狂気だ。僕はその狂気と添い寝を試みた狂気の日本人旅行者として、この建築の歴史の一幕に永遠に名を刻むことができるのではなどと、不埒なことを思ったことを覚えている。他にもこんな建築はいくつもある。その歴史に敬意を表し僕はこれらの建築との心中を強要されたら拒むことはない・・・つもりだ。

かたや、身をゆだねることを拒絶したい建築・・・。僕は虫の知らせを十二分に信じる。一寸の虫にも五分の魂どころか、1寸の虫には宇宙が秘められているという科学を信じている。だから街を歩いていてもそんな建築には決して近づかない。中に入るなどは言語道断だ。たとえ、前面道路が交通量の激しい幹線道路だとしても、すばやく道路を横切り反対側の歩道を顔を伏せて一気に通過する。道路を横断する事に比べれば、その建築に近づく危険のほうがよほど危険だから…。

とはいえ、自分の意思に反して、時にはその建築に進入することを強要されることもある。そんなときは、ニコニコしながらも常に非常口誘導灯を確認し、常に避難動線をシュミレーションしながらジャングルの探検隊のように注意深く、そして冷静に進行する。この誘導灯とそが生存への道しるべ、僕にとって唯一の生存の可能性をもたらすサインである。まあ、ジャングルの探検は経験したことがないが、この危険に比べればどうだろう・・・。

なにわともあれ、そのものの素性と組成をできるだけ把握すること、当然それは困難だが、もしそれが本当に難しいのであれば、信頼できるプロにすべてをゆだねること・・・、それ以外にない。