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キース

今日はキースジャレットのピアノ曲を聞いている。
グールドと同様、IPODでノンストップだ。朝9時の始業と共にスタートして、大体夜の11時ころに終了となる。

使っていて言うのもなんだが、このIPODというのはどうだろう。CDをプレーヤから出したり入れたりするのも音楽鑑賞の一部だと思うのだが・・・。一昔前までは大事に大きなジャケットからレコードを取り出し、緊張しながらレコードにそっと針をおとし・・・、こんなプロセスと最初の雑音を音楽のプロローグのように楽しんではいなかったか。こんなプロセスも大事な音楽鑑賞ではなかったか。
IPODは音楽の大事な何か・・・、そう、音楽の重量感みたいなものを捨象してしまっているような気がする。

一親等内に今でも一眼レフと大きなレンズケースを抱え趣味の写真撮影をしている親族がいる。

曰く、デジカメでは撮影ではないそうだ。やはり銀塩の香りがしないと写真とは呼べないそうだ。案の定、彼のもうひとつの趣味でもある音楽鑑賞でも、大きな棚に気に入ったCDを充満させる事に喜びを見出し、微笑んでいる。まあ、気持ちは分からないでもない。もちろんアンプは真空管・・・。

閑話休題。

キースの音楽だが、多くの人はやはり、ケルンでの録音が最高だという。だがしかし、違いの分からない僕のこと、最近の録音であればあるほど、素晴らしいと思う。なぜならケルンは美しすぎるのだ。
例えば、最近の録音でもあるレディアンス。鑑賞するには本当に骨の折れる音楽だが、耳をそばだてて聞いていると、ほんの一瞬、僕の琴線に響く最高の旋律に出会うことができる。その最高の旋律を求め、じっと聴いている。なぜなら同じCDにもかかわらずもう二度とその旋律に出会うことができないような気がするから。
まるで、読経を同時通訳するような、そんな音楽だ。

然るに、音楽は美しければよいというものではない、人も然り・・・、建築も然り・・・、美しいだけではなにか足りないのだ。

そして、今日も僕はそのもう二度と出会えない美しい旋律を探しながら耳を澄ましてキースの音楽を聴いている。ただ一つ、キースの1曲1曲がだんだん短くなってきている事が気になる・・・。