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フライフィッシング

僕は釣りを嗜む。

それはゲームフィッシングなどというヤクザな行為とは確実に一線を画す神聖な行為だ。釣るということはすなわち、生きるということ。ゆえに釣った魚は食さなくてはいけない。さらに言うと、釣った魚は自分でさばくのが、正確な釣り師の定義だと信じている。だから、釣りは間違ってもゲームではないし、リリース、もしくは自然との共生などという偽善は決して信じない。

僕は釣りの中でもフライフィッシングかルアーフィッシングを好む。なぜなら、魚たちと釣り師の間には歴然とした境界があり、間違っても魚は釣りという行為を好んでいるわけではないと推察される。が、しかし、釣り師は一方的に魚との会話を求める・・・。例えば、ゆったりと岩陰に潜んでいると美味しそうな食料が、目の前にフラフラ・・・、思わず食べたらそれが釣り針だったなんて、泳げタイヤキ君も真っ青、これはもはやテロである。どこぞの餃子と同じ大変な騒ぎだ・・・。だから、釣り師側の強烈なアドバンテージを少しでも魚と対等にするため、餌という彼らの生命の維持機能で彼らををだますということを避け、イミテーションにより彼らに挑む。

昔、中学生のころ、暇さえあれば毛ばりを巻いていた。僕の毛ばりはまったくたいしたことはなかったが、その中でも特に結果を出したのは、下の体毛で巻いた一品だ。僕らはこれをスーパーブラックと名づけ、かなりの数のマスやウグイをものにした。スーパーブラックのどこがそんなに彼らにとって魅惑的だったのかは分からない。特に透明度の高い、コンディションの良くない釣行に結果を出すことができたように覚えている。あの絶妙な浮力が良かったのか・・・、微妙な光沢が良かったのか・・・、それとも香りか・・・定かではない。いずれにしてもまだ乏しい体毛の量を心配しながら作っていたとはいえ、安価で仕入れることのできるリーサルウェポンだ。

釣りという行為は、人間が生きる為の手段としての狩猟本能を考察する、すなわち哲学である。もし、大げさだと思うのなら、ブラットピットのデビュー作となった映画を見ると良い。釣りはまさに人生でえあり、人の営みであるということがつぶさに見ることができるから。

ちなみに、僕のレコードはマスは64センチ、スズキが86センチだ。