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ジュールの法則

記憶が定かではないが・・・、中学校の頃ジュールの法則なるものを学習した。質量保存の法則といったかもしれない・・・。

内容はとうの昔に忘れてしまったが、ある閉じた系の中では消費するエネルギーの総量と消費されるエネルギーの総量は同じであると、つまりエネルギーを消費するものがあれば、それと同様のエネルギーを消費されるものがあるということだ。

なぜこの授業が衝撃だったか・・・。僕は、この法則を既に小学校の低学年で体で会得していたからだ。

当時僕は、クワガタ虫とカブトムシを大量に飼育していた。彼ら彼女らはいくつかの飼育箱に分散されており、それぞれの生活を営んでいたわけだが、その小さなコミュニティの中にも強者と弱者に分割され、1つの社会になっていた。

僕はどうしてもその強弱という単純なヒエラルキーになじむことができず、偉そうなやつはとたんに別の箱に引越しを強要、そうすると意外にもそいつはそこで小さく落ち着いてしまったり、なじんでしまったりするであった。

凄腕ワンマン社長の部下はたいてい疲れきっていたり・・・、奥さんが元気な夫婦ではたいてい旦那さんはおとなしかったり・・・、またこの逆もあり・・・。どちらかの政党が強くなれば、反対に・・・。とその閉じた環境の中でエネルギーを消費したり、されたりしているのが社会だと思う。

けれどそれはたまたま設定された枠組みの中だけの話で、それが個人の才能や能力などとは決して思わない。そう、才能などというものは皆そう大きな差はない。関係性、環境、時勢の問題だ。奥さんの前ではおとなしい旦那さんも一歩外に出るとかなり優秀な仕事師だったり、・・・だったりもする。つまりは関係性の問題。

ある友人が行っていた。僕は東大の落ちこぼれ・・・。彼は優秀な人だが・・・、そこでもやはり落ちこぼれが要請されている・・・、必要とされている。つまりはそういうことだ。

いくら強いといってもそれはある限定された環境やコミュニティに所属しているからであって、いつもそうというわけにはいかないのだ。環境が変われば状況が変わる、関係性も変わる。金持ちとか、勝ち組とか・・・、それは環境や関係性、タイミングの産物であり、個人的なものではないのである、と思う。

つまり、エネルギーを消費するものがいれば消費されるものが常に必要だと言う事、そしてそのバランスは環境によってクルクルと変化するということである。それは社会や世界の摂理である。裕福な国は残念なことに途上の国の上に成り立っているのだ。

こんなことの基礎を虫の飼育から学んでいた・・・。

今でも、この法則が脳裏をかすめる。

ただ、自分が消費する側に回るべく行動をするのか、それとも消費される側に行くのか・・・、

多くの人が消費する側にまわるべく、あれやこれやと画策する・・・。
もしくは自身が消費する側に存在することが可能な環境を探す。そして、言わずもがな、消費される側の人は歴然として存在する。

サアどうなのでしょう。きれいごとを言うつもりはない・・・、もちろん負け惜しみでもない・・・。が僕はそのどちらにも興味はない。なぜなら、そのような分け型はクワガタのコミュニティと同様、枠組みやタイミングの変え方によって容易に代わるからである。そう、タマタマである。

人は生きている限り様々なコミュニティ、枠組みに属していなくてはならない。親子、恋人、配偶者、家族、学校、会社、仲間、国・・・。そしてそれらの枠組みやコミュニティの枠組みにちょっと変化を与えるだけで様々に変化するのだ。だからこそ、自分に都合がよかったり、消費する側に回ろうとするような事は必要なく、むしろそれらのバランスをとること、そしてそれに伴う行動の方がよほど大事であると思っている。皆で消費し、皆で消費されるのだ。

余談であるが・・・僕は、個人の個性も大事だけどその枠組みごとに違う立場や考え方のできる個人がいてもよいと思っている。つまり、個人の中にもいくつかの人格、キャラクターを持つということ。決してそれは2重人格とか、分裂症的とかではなく、もっとポジティブなもので、より人生を楽しく、時にダメージを分散し、そんなことが可能な時代なのでは・・・と思う。

僕の生業は建築設計者である。そして施主はたいてい建築の素人であり、施工会社は百戦錬磨の建築のプロである。そこで僕のできることは、施主と施工会社がお互いに助け合い、お互いに利益になる環境を設定することである。

どちらかが一方的にエネルギーを消費するでも、消費されるでもいけない。バランスを維持することがとても大切なのだ、そのバランスを保つことが”生きる”ということだと思っている。