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事務所の引っ越しをしました。

アシヤアーキテクツの事務所を引っ越ししました。

新しい住所は

神奈川県横浜市青葉区市ヶ尾町1162-1-209   tel:045-500-9145

となります。東名の横浜青葉インターを降りて246号線を渋谷方面に向かって一つ目の交差点に面した場所です。

電車では東急田園都市線の市が尾駅より徒歩で2分ほどです。

西を見る-s

事務所を引っ越しする理由はたった一つ・・・、自分たちで壁、天井を塗装したかったからです。

今までの事務所ではその行為は言語道断決して許されることはなく・・・塗装したいという欲求に抗うこともできず・・・やむを得ず引っ越しをし壁の塗装等を終了した次第です。
ちなみに、引っ越し先が決まって今日でちょうど10か月もの日時を費やしてしまいました。まあほとんど放置していたわけで、日時を費やしたというのはかっこつけすぎでしょう・・・。失礼をしました。

ちょうど10か月前、引っ越し先も決まり、自分自身、さて意気揚々と我々の事務所のことを考え、進行するのかと思いきや・・・残念ながらまったく進みません。

壁が塗りたいという唯一のモチベーションですら、では何色にしたいのかという希望もない状態なのです。
そうです。残念ながら私たちは建て主が目の前にいないと・・・、そしてそのキラキラとした眼差しに包まれていないと何一つ造ることも、考えることすらできないという情けない事実に直面しました。

何度も何度も緊急ミーティング、なぜだなぜだと自問自答、まさに五里霧中、たかが80平米の改修・・・我々12年の仕事の中でも最も小さなプロジェクトであるにもかかわらず・・・。

このように書くと・・・きっと自由であることにる様々な可能性を考えるあまり、手が動かなくなっているかと思われるかもしれませんが・・・決してそうではありません。

そして、数か月にわたる放置の上に私たちの中でコンセンサスを得、前に進めることができるととりあえずスタートさせるためのスイッチとなる言葉を見つけました。
残念ながらあくまでも言葉です。決してスケッチや図面ではないところがとても建築設計者の仕業とは思えません。

その言葉とは・・・

途中でやめること・・・、

デザインをしないこと・・・・、

必然的な在り方にすべてをゆだねること・・・、

自分の体を使って造ること・・・。

そして何より私が大事にしている言葉である”ブリコラージュ”という概念の実践すること。

です。

建築設計者としてはすべてを放棄せんばかりの、完成形を全く予想できない、否、完成を予想する必要もない無関心な状態の中で空間がいかに立ち上がるのか、その傍観者に徹していくことということにとても魅力と刺激を感じ、唯一のモチベーションとして設定しました。

特に・・・途中でやめること・・・。やめてよいとは!!当時の私には気も狂わんばかりに魅力的でした。
建築設計者として言語道断な不可侵な行為、背徳的な魅力を超越しもはや犯罪的ですらあります。
そして実際的には多くのプロジェクトが進行しているさなかですし、そんな自分の仕事にかかわる暇など全くないからです。

木壁-s_edited-1

 

途中でやめること・・・。

1秒後には過去となる”今”を起点として経験や時間を蓄積・・・時に堆積する空間、場を作ること・・・、つまり変わり続けることを許容する場を途中であると思います。

(常に意識を高く保つことによりあらゆることを自身の経験値に変えてゆくように、今と過去をつなげていくことができるのであればそれは”蓄積”になるだろうが・・・、私には気が付いたらチリと積もった山ができているかのようなただひたすらな堆積もまた魅力的でもあります。)

つまり建築とは、過去の時間を空間に織り込む場を設えることでもあると思います。

・・・一切の妥協を許さずに完膚なきまでに造りこむことでの”完成”による時間の停滞とその不可逆性、どうしようもなく退屈で押しつけがましい感じ・・・。

・・・逆に途中でやめることによる未来の可能性の示唆、さらに何かをやらざるを得ない状況、時とともに空間に蓄積される歴史と経験、不確定な未来とその可能性の広がりをおおらかに許容する可能性。

そんなことを考えながら途中でやめるということを考えてみました。

磯崎新さんの廃墟論やピラネージに関する論考から建築に対する興味を覚えた自分としては・・・、

この高度に進化した資本主義、有形無形にかかわらずつまりすべてのもの、たとえそれが人であっても、この世に存在した時点から消費が始まりやがてそれは消滅するという一方通行、不可逆でただひたすら消滅に向かう時間の中で、建築だけはそこに時間と歴史を蓄積し続ける、時の流れをそこに刻印し続ける、物理的な存在としての建築とその記憶、つまり決して消費されない稀有な存在だと信じています。

自分が普段のプロジェクトでは圧倒的に不可能なこと・・・、建築竣工後においてまで時間の刻印のコントロールするということ、例えば手すりが汚れて、床がけもの道のようにすり減り・・・そんな未来(過去の蓄積)までイメージしながら設計しているとはいえ必ずしもそうはなりません。むしろ建て主さんにとってはとっても大きなお世話なので、やむなくおおらかに作ることによりっさまざまな可能性を許容する空間を志向しています。

ということで、建築設計者の職能、責任として完成した建築を引き渡すというあたり前のことに対して、完成しない、させないということによる獲得できる圧倒的な可能性と自由。

実は常に未完であるということは住宅や建築は常にそうなのかもしれません。 どのように時間を織り込んでゆくかが建築の設計においてとても大事なことであると考えています。