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自由な天井

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先週のブログでアップした住宅の天井です。

この計画の施主はグラフィックを主体とする広告業を営んでいる。氏の仕事はいわば、情報と美学に接点を見出し、それらを経済行為に落とし込んで行くことである。つまりはアウトプットの中に緻密かつ大胆に、そして巧妙に導火線を仕込むことである。つまりは欲望を科学する発破師といったところか。それも飛び切りフットワークの軽い、神出鬼没である。おまけにエネルギッシュで明朗快活・・・もはや危険ですらある。

その氏からでてきたテーマは、天井であった。

氏はアメリカで生活した経験があり、彼の地での住まいは天井裏部屋で、その天井に刻刻とさまざまな陰影が刻まれていたことが忘れられない・・・とのこと・・・、そしてこの住宅にはそんな天井を求められた。まったくをもって抽象的ではあるが・・・、なんとも美しい動機である。

氏はきっと彼の地で天井を見上げ続けたのであろう。その天井はもしかしたら希望が純白にハレーションしていたのかもしれない、そして時には潤んでいたのかもしれない・・・。
そして氏は今この地にその天井を所望、普請せしめんと企てている。
建築する動機とはこのようでなくてはならない。
そして経験こそが森羅万象に色と形を与えることを思い知る・・・。是非その瞬間に立ち会いたいという純な動機とともに僕はこの仕事を引き受けることが決定した。

蛇足ではあるが・・・、氏が所望しているのは彼の地の天井を模すことではない。当然ではあるが・・・。氏は天井のありように自身にとっての空間の本質を理解し、そして天井こそが氏にとっての空間のアイコンであるのだ。当然ここでは新しい天井のあり方が求められている。

さらには設計者としての僕はその天井が大好きである。なぜなら、天井は自由であるからである。僕は自由が大好きである。だからこそ僕は不自由を愛してやまない・・・。

普段の設計の打ち合わせや要望の大半は平面プランにかかわることが多く、様々な条件が発生してくるが、天井に対する要望は少ない。だから天井の形状には僕自身の夢を落とし込むことに腐心する。当然、建築は建て主の夢や希望が色濃く反映されるわけではあるが、こちらも物分りのよさでは人後に落ちぬ建築家を自負しているとはいえ・・・、笑顔の裏には建築家としての夢の実現には対しては欲望の化身でもある。

率直にに申しあげる・・・。

ただ単純に、建て主の希望や夢を実現するために僕はこの仕事をしているわけではない。常に何かを企てている・・・、それは図面や言語にできないことが大半ではあるが・・・、うかうかしてはおられませんぞ・・・、と慇懃にご忠告申し上げる。

つまりは、建て主の要望を十全に満たした上でプラスアルファの自由を空間に埋め込むことが僕にとっての建築を設計するという作業であり、作法である。

氏とは打ち合わせも順調に進んだ。きっと氏の仕事もアウトプットの中に何か導火線を仕込むことを生業としいているからゆえ・・・、僕とは呼吸が合ってしまったのであろう。これが幸か不幸か・・・、今のところは不明だが、未来は明るい。

とはいえ、ただこの天井のデザインありきでトップダウン的にその他の部分に派生してゆくようなプロセスはとらない。ここが僕の天邪鬼たるゆえんでもある。なぜならそれではこの天井の形状の必然性がないからである。必然のなさはつまり・・・然るに建築ではない。

ということで敷地条件やその他の要望、自然光や風の流れを大きな流れのなかで優先順位をつけることなくフラットに検討を進め、その中で最後にこの天井形状が導かれるようなプロセスをとらなくてはならない。回りくどいがこのプロセスにより始めてその天井が天井たるゆえん、そしてその天井に自由がもたらせられるのである。そう、自由でなくてはならない。

天井の必然性・・・、空間の強弱・・・、広がりと収束・・・、空間の求心性と周縁性・・・、そして認識的な境界線。
僕の語彙の範囲で言語化するとチープにはなってしまうが・・・、そんなことを天井の操作で可能になることを証明できたら、そしてそれが氏と氏の素敵な家族の生活に新しい潤いと刺激、自由を与えることができたらこの仕事は成功である。

とりあえず、この天井は本当に美しい・・・と思った。

9月28日のブログもあわせてみてみてください。