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フィクションと科学

ある日突然、地球上の限りなく小さな1点が指定され、僕は定期的にその一点と事務所の往復を強いられる。

つまり、新たに現場が始まるということ。

当然、その場所に到達する最短ルートを見出すように地図を広げるのだろうが、僕は常にそうしない。なぜなら、地図を見ることによって、あらゆることが合理化され新たな発見の可能性が低下してしまうのではという危惧からだ・・・。

僕のルートはあらゆる外的要因によって最適化される。例えば、美味しい食堂、美しい建築、CDショップ、綺麗な店員さんのいるカフェ・・・。特に建築は何度でも・・・。特によいものは春夏秋冬朝昼晩と見なくてはならない。

そんなこんなで僕のルートは、長い時間をかけて最適化され、ほぼ現場が終了する間際になってやっと確定する。まるで、生命の進化のように・・・。

時に地図だとかナビとかは可能性の幅を狭める悪因でしかない・・・。同じ理由で、僕は傘と時計を持たない。これは中学生の頃からの僕のこだわりである。常に身軽でいたいのだ。よくわからないが・・・。特に傘は嫌いだ。所有したことすらない・・・。

先日、品川駅近くでのインテリアの仕事の依頼で現地調査に行ってきた。

調査は早々に切り上げ、周辺調査と称して近隣を5時間ほど歩き回っていたら海に到達した。確かに、品川は海が近い。が、その道程があまりにもすごかった。新幹線の駅から数分でこのような古きよき風景が今でも残っているとは驚きだ。

そんな風景にまみれながら、僕はAKIRAを思い出していた。考えてみれば、この町並みの風景とは僕が幼少期を過ごした20年以上前は当たり前のように存在したし、現在であっても当たり前の日本らしい風景だ。

ただ、今の僕は同じく東京や都市を舞台にしたAKIRAや、例えばオールウェイズ、東京ではないが都市の風景としてブレードランナーといったフィクションとしての風景を経験したことによってこの街の風景が不思議なイメージを持ったということだ。ネオ東京は建築家丹下健三の東京計画1960、ミヤコの寝殿は代々木体育館が原型である。

そしてそれは決して東京ラブストーリーではない何かだ。それではいくら東京という冠を称していても単なる東京を舞台にしている恋愛ドラマということだけである。

逆にAKIRAやオールウェイズなどのフィクションとしての風景を経験することによって、この街を”カオテック”だとか”ノスタルジック”だとかという形容をするようになっている、そんな感じ方をするようになっているのだ。

有史以来、人は常にフィクションを通じ物事を理解しようとし、それを欲するのだ。

自然災害、雷、洪水などの過酷な自然現象に神々の意思を読み取り”神話”を生み出し・・・、

単なる生殖行為であるセックスに必要によりフィクションを介在させるため、”恋愛”を創造した・・・。

世界と人間との距離と関係、そして価値を与えるものがフィクションである。

そんなことを品川の海で考えてみた。