アシヤアーキテクツ | blog

no,i do not.

2009/6/29 月曜日

どうにも、日本語がわからなくなることがある・・・。

留学時代、仲がよいクラスメートがいた。彼はギリシアからの留学生で、英語は堪能であった。

実は、僕の卒業がかかった最後のインタビュー、つまり卒業設計のプレゼンは、彼にほぼすべての台本を作ってもらって何とか卒業を果たしたわけで、そんな意味では友人どころか恩人である。その彼は、テリヤキチキンが大好きでよく近所の日本食レストランでご馳走したものだ・・・。

彼は、今ではロンドンでアーティストとして、また卒業した学校のチューターになっている。元来、優秀な人であった。

そんな彼からのメールの返信で、久しぶりに英語での文章を作っていて思い出した。

昔、彼と話をしているとき、例えば「君はビーフが嫌いなの?テリヤキは大好きなのに」と質問をしたところ、

no.i do not.

と答えてくる。そう彼はビーフが嫌いなのだ。

つまり、

Do not you like beef?という質問に対して

no.i do not.と首を振りながら答える・・・。

しかし、僕はどうしてもその受け答えが理解できなかった。彼がビーフが嫌いなことではなくて、嫌いであればyes,と答えてほしいのだ。

つまり、日本語では君はビーフが嫌いなの?と質問すれば、ハイ、嫌いです。と言う事。

しかし、英語ではno,

となる。

どうでもよいことだが、今でもよくわからなくなる。

日本語を話す日本人でもたまに僕を混乱させる人もいる。僕がおかしいのか・・・。

例えば、君は僕のことが好きではないの?と真剣にたずねたら、はい、と目を見ながら答えられたら答えられたらショックでしょう。
首を激しく左右に振りながらいえ、大好きです、と答えてほしいところだが・・・。

けど、この場合、はい、私はあなたが好きですと答えていることになる。ひと安心・・・。

相手にもよりますが・・・。なかなか頭で咀嚼する時間が必要で、素直に喜べなくなります。

僕はこの否定形の疑問文に慣れることが英語の中でもっとも苦労したところで、今でも日本人で英語式の返答をする人に混乱させられている。

まあ、僕が否定形の疑問など天邪鬼な聴き方をしなければよいのだが・・・。 

僕の功罪

2009/6/22 月曜日

不況といわれて久しい・・・。僕自身・・・、こんな時代だからこそ何か新しい発想の転換が求められる!!今こそチャンスだ!!!、風評的なものに踊らされるな!!!!などとついつい電車の吊り広告にあるビジネス書の表紙のようなことを口走ってしまいそうだが、僕も無意識のうちにいくつもの功罪をなしていることに気がついた。
 
先日ある知り合いに自宅の耐震性について意見を求められた。その人は建て替えも含めて検討しているらしいとのことであった。

そこで僕は、この家をつぶすことはどうかと思う。まだまだ充分である。少しだけ補強とリフォームしていけばかなりよいのでは・・・と・・・。

僕の生業は建築設計。喜んで設計させていただきますといえばよいものを・・・。一つの経済の停滞に加担してしまった。
 
また、知り合いから・・・、彼は個人事業主だが、事業とは関係ない、アトリエ、リラックスできる海の見える戸建ての別荘がほしい。どうしよう・・・。との事であった。そこで僕は、今はやめとけ。金があるなら店舗を改修しよう。それでもあまるなら新店舗にしたら・・・。
もしどうしてもというなら、資産価値とか気ににしないで古いリゾートマンションでもかったら、ほんとはガールフレンドを呼びたいだけでしょ?と。彼は頭をかきながら一言、そうだね・・・。繰り返すが、僕の生業、つまり僕の生活は建築の設計により成立している。
 
他にも、最近ではアマゾンで本を探し、そのままプリントした本のリストをもち市営図書館に走る・・・。これでは、作家に申し訳が立たない・・・。家ではもっぱらDVD。

映画はあくまでも映画館で見るものであるし、映画館で見るように編集されているのだから。
映画の編集作業も映画館と同等の大きさのスクリーンに画像を投影しながら編集作業をしているらしいし・・・。実際のスケールで扱うということに建築との接点を感じた。
先日、以前お世話になった施主で出版関係の仕事をしている方と話をした。氏によるとツタヤやヤフーオークションのおかげで、新刊本がまったく売れないそうだ。おかげで一部の作家を除く多くの作家の収入が激減し、もはや作家としての生業が成り立たなくなってくるのではと嘆いていた。これでは新しい作家は育たないし、志す人材も少なくなる・・・。とのこと。

それはつまり、僕らが新しい才能の芽を摘んでしまっているということ・・・。本に限らず、映画でも音楽でも何でも、創った作家に対するリスペクトと対価は忘れてはならない。そしてそれが新しい才能につながり、僕達に新しい世界をまた見せてくれるのだから・・・。
 
まさに功罪相半ば・・・、ほかにも多々あるだろう・・・。

とは思いつつ、決して失敗したとか、後悔している訳ではない・・・。問題の根は深い・・・。

 

心の友

2009/6/15 月曜日

僕には心の友がいる。彼は僕と同じ1970年生まれの建築家。独立した瞬間から将来を嘱望され、今では海外でのプロジェクトに至るまでを抱えたまさに同世代のトップランナーだ。

僕にとって、同世代のトップがどのようなことを考えているかを知ることは大事だと考えている。別に迎合したり参考にしたりするのではなく、大きなうねりとしての何かを感じることができるからだ。建築に限らず文学でもアートでも哲学でも、その分野の同世代がどのようなことを考えているかを知ることはとても楽しい、

彼の著作やエッセイ、建築作品はほとんど見ている。最近では、彼の講演会に出かけてきた。実際来場者のほとんどは学生から20代まで・・・、僕は完全に最高齢だったかと思う。

そこでは彼が、自身のビジョンを示しながら、熱く語っていた、僕は同世代の熱い気持ちが見たいだけなのかもしれない。
彼はこういっていた。

今時分の取り組んでいる仮説がよい方向に向いていることだけは確かだ。ただ、今自分が作品として提示しているものがその仮説に対して適切かどうかはよくわからないし、今後提示できるかも曖昧だ。だけど、僕はこれを信じてできるところまでやってみる・・・。

と。まったくかっこいいではないか。まだまだ自信がないといいながら目は確信に満ちていた。

そう、作り続けることが大事だ。こんなタフな同世代のランナーが建築界そのものをいずれ引っ張って行くのだろう。

現場の屋上から

2009/6/8 月曜日

現場の屋上からの風景だ。もう工事はほぼ終了・・・。ほっとした気持ちで、最近聞いたり読んだりした話を思い返してみた・・・。

dsc02471.JPG

屋根がナミナミと連続し、遠くには新宿の高層ビル群が見る。

それぞれ一つ一つは精密に設計された建築なのだが、それが集合するとまさにカオス、エントロピーが最大化へと向かう光景だ。その果てにはすべてが霧消、ホワイトアウトするらしい。

そこには明確な意思は感じない。まるで細胞が代謝を繰り返しながらうごめいてまるで生命体のようだ。そしてそれは美しい。

そう、都市は生命体なのだ。

生命体の一つの性質として自身の表面積を増やすというものがある。例えば人間の肺のひだひだの表面積の合計はテニスコート1面分くらいはあるらしい。胃も腸も脳味噌も栄養分を吸収したり放出したりと代謝するため表面積を増やす、つまりラジエターのようにひだひだによってできている、ということがある。
例えば、植物は葉を使って、自身の表面積を増やす。

都市もそうだ。敷地をより有効に使うため床を2層3層、時に60層70層と床を積み重ねている。まさに床面積、地球の表面積の増大化こそが都市の過程である。

人為的なのかもしれないが、単純な比喩としてではなく、まさに都市と生命体は同義である。

あらゆるものはエントロピーが増大する過程にあり、生命体とはエントロピーを食べているという指摘(負のエントロピー)にあるように、生命体の存在はエントロピーを秩序付け、エントロピーの増大とのバランスを保っているというものがある。開放系の安定性というらしい。

建築を設計するということはまさに生命体同様、そのエントロピーを秩序付ける行為であり、建築の可能性の中には生命体や都市の持つダイナミズムや活性を空間に取り入れなくてはならない。

そう、そんな活気と生命力に満ち溢れた建築をいつかものにしてみたいものだ。それはたぶん生命や都市の原理や摂理こそがひとつのヒントになることだと思う。

 

インテリアの設計

2009/6/1 月曜日

事務所では年に3件から4件ほどののインテリア設計を行っている。

主に物販や飲食等の商業施設である。インテリアの設計と建築の設計は似ているようでかなり違う。

僕自身どちらが得意ということはないのだが・・・、どちらとも手がけることにより我々自身の幅を広げることになっているのではと感じ、期待している。とはいえそれぞれの仕事に対する構え、アプローチというものはかなり違う。

インテリア設計、特に商業施設は”有”のものに更なる”有”を付加し、どこまでそのポテンシャルを引き出し伸ばすことができるか・・・、つまり付加的なデザインだ。
創造的であるより編集的でもある。
ショップやオーナーのスタンスによりあらかじめイメージの方向性は提示されていることが多いので、その中でさらに何かを付加することでよりそのコンセプトを補充、補強、補完することが求められる。そして、その効果は売り上げとか来場者数につぶさに表れる。このような判りやすさもこれらの仕事の魅力の一つではある。

が、それだけに振り回されてしまうことには気をつけなくてはならない。例えば、飲食であれば単純に座席数を少しでも増やすのではなく、思い切って減らすことによる付加価値の創出・・・、といった感じである。ショップに求められる効果、つまり来客者に対するアピール、わくわく楽しく、つまりは空間による欲望の結晶化・・・、僕はこの判りやすさがとても心地よく、そしてその欲望をダイレクトに喚起させることが気に入っている。

一つの雑貨ショップがデパートの一角に竣工した。商品はかなりよいセンスで、ショップの方向性も定まっているので、少々戸惑ってしまったが、壁面一体に秘密の小箱を並べることにより、その中には何があるのだろう・・・、一つあけてみたいな・・・、こっそりとこっそりと、秘密をまさぐるような背徳性、官能性・・・。こんなことを考えながらデザインした。
他にも、難攻不落の異性を口説くための狩場としてのバーなども最近デザインした。いかに自身の、また異性の顔やかたちを美しく見せるかという照明の角度や光源の大きさと種類が計画がデザインのポイントとなった。いずれにしてもここでは書く事ができないほどの不謹慎さと不埒な気持ちでデザインしていた。否、書くことはできるであろうが、もし、この文章により仕事の依頼がキャンセルになると悲しいので・・・。yoyiyyeeoaoai.jpg

商業施設のデサインミーティングでは、施主には勢いとか、気合とか、ハートとか・・・、そんなわけもわからない抽象的な言葉と擬音語、擬態語を羅列しながらデザインしている。

一方、住宅などでは当然ではあるが身体性や五感のすべて、生活が最も重要なプライオリティである。

こちらはいかに余分なものを排除し、必要なものを必要な形で、当たり前のようにデザインすることが求められる。商業施設とはまったく逆方向の還元的なデザインの志向だ。どちらも空間ではあるのかもしれないが、僕にとって、それぞれ対極に位置する思考方法である。

ストリートミュージシャンの音楽を聴きながら

2009/5/25 月曜日

現場の帰りの川崎駅前のこと・・・、毎度のことだがストリートミュージシャン達の演奏にふと聞き入ってしまった。路上だろうがホールだろうが音楽はライブに限る。市は市政としてストリートミュージシャン、つまり音楽文化の育成には特に寛容らしい・・・と言う事が川崎駅構内の市のPRに書かれている。素晴らしいことである。本日は3組ものライブが見ることができおかげで現場に遅刻した。

若さにあふれ、前向きに音楽に取り組んでいることがひしひしと伝わってくる。熱い情熱を感じつつも、それを維持することの困難さを考えてみた。いつもの天邪鬼である。

僕も10代から20代にかけての頃、無謀な夢を抱きながら過ごしていた。

今になればよく判る・・・。僕は俊輔やイチローになれるわけはないのだ。当たり前のことだ。

誤解しないでほしい。

間違っても、当時の僕は彼らになれると思っていたわけではない。世間知らずにも世の中にはそんな才能があると言う事を知らなかったのだ。 
ただ、目の前には大きな可能性が開いていると信じていただけだ。

それは単に、未だ不可能だとわかっていないことが多かったということ。それが若さだ。100mを9秒で走れるかどうかはとりあえず走ってみないと判らない・・・。そう、不可能ではあろうが、実際に試していないというだけで、安易にも一つの可能性になってしまう。

ただ、ただ、そこに気がつくのが本当に遅かった・・・。気がついたのは不幸にもたぶん20代の中ごろだったと思う。遅すぎる・・・。

そもそも成長とは何であろう。可能性を捨象する道程なのかもしれない。

気がついたのはよかったが、もう後には戻れない・・・そんな時期でもある。そんなこんなで今に至る。

自己に対して、冷静に適正を判断し客観的な分析をすることが何より長生きの秘訣だ。これしかない。今になればよく判る。

決して夢を見るなと言う事ではない。しかし、俊輔やイチロー、伊東豊雄に宇多田ヒカル・・・彼らには生まれたときから僕とは違う世界が見えているに違いないのだ。

それは努力などというものでは決して補うことができない何かだ。

子供の頃から努力という言葉にある種の胡散臭さを感じていたであろうに・・・、自分のことになると・・・。客観性の重要性をここでも痛感・・・。

今、自分のできることは、まあ、手前味噌とはいえ、客観的に見て少しだけ秀でた何かを無理してでも見つけ出し、冷静に伸ばしてゆくこと。

そして大事なことは自分のできる範囲の先が、その先の何かに少しでもつながって行ければと、一つ一つ目の前の事を確実にしてゆくこと、継続することだと思っている。

そう、方向さえ間違っていなければ何とかなる・・・はず。

知識と知恵

2009/5/18 月曜日

先日、日曜日にもかかわらず、ただ一枚の扉の塗装仕上の立会いで半日現場に滞在していた。

職人さんにはほんとにいい迷惑であったと思う。しかし木製の扉なので失敗が許されず、つまり濃過ぎても、薄すぎても、美しい木目が消えてしまっても困るので何度も何度も試し塗りをしながら調整をした。職人さんもうっとおしかっただろうが、表面上は機嫌よく、柔軟に対応くれ、さらには塗装の極意なるものを僕にインタビューされながらの工事となった。当たり前だが施工のことは職人さんに聞くに限る。おかげで色は完璧、施主にも喜んでいただけたようだ。

子供の頃から僕は何でも、どうして?どうして?と駄々っ子のようにだれかれかまわず人に質問することが大好きだ。
M式弁証法と呼ぶ、もっとも真実に近づける方法だと今でも信じている。周りはえらい迷惑だとは思うが・・・、知恵知識の共有化は有する者の義務ではある由と、僕は固く信じている。

そして今回も様々に面白い話をしてもらった。例えば、ある色を見てその色とまったく同じ色の塗料の作成方法について・・・、この職人さんはかなり自信があるらしく、頼もしい限りだ。そして深い・・・。

そんな僕の癖は先日は以前お世話になった理容師にも向けられた。

長い付き合いの彼は僕のそんな癖を十二分に理解してくれているのでいやな顔一つせずに答えてくれる。

そこで覚えた知識・・・、一つの毛穴には1本の毛髪が生えているのかと思いきや、そうではなく2本3本と生えているとの事・・・、だから白髪を抜くとより白髪が増えるということは医学的には根拠がないにもかかわらず、同じ毛穴から生える毛は白髪になり、結果白髪は増えるということ・・・。また、ヒゲは歳をとればとるほど太く、そして濃くなるということ・・・、加齢に伴い様々な身体的部分は縮減してゆくが、ヒゲは違う、これはホルモンのバランスによるらしい。
そしてもう一つ、男性のシンボルでもある睾丸も生きている限り大きく生長しているらしい・・・。
どうでしょう。ヒゲも睾丸も頼もしい限りではないか・・・。
とかそんなこと。どうでもよいことかもしれないが、これも一つの知識である。

最近計画している住宅のトイレについてかなりこだわっている。

なぜか・・・、自身の生活や志向を思えば、知識を入れる、何かを食べる、そして得るなどなどあらゆる物を体内に入れることに僕は集中しすぎているのではないかと・・・、まるでフォワグラのようだ。(残念ながら10年以上前、友人の結婚式で食べて以来で味は未だによくわからないが・・・。)

それに代え、知恵とは頭から出すものである、つまりアウトプット。

僕は知識も大事だが知恵こそがよりそれをそれに至らしめる重要な指向であると考えている。

だから、つまり、だからこそトイレだ。

排泄を通じアウトプットの美学をここに感じた次第である。

トイレでの所作にこそ何か本質があるのでは、と言う事で今僕はトイレの設計に夢中である。

普通のこと

2009/5/11 月曜日

あるクライアントとの打合せは、計画についてのことが全体の10分1くらいで、その他はすべて雑談と飲み会と笑い話で終了する。

氏いわく、計画についてはもはや各論である。問題は自分自身、その先に自分が欲している建築のことを知ってもらうことが大事であると。そしてクライアントにとっては僕自身がどのような志向で計画を捕らえているかがもっとも重要であるということ。計画の内容は一任しているのだから、後は頼む・・・ということだそうだ。

初期のプレゼンの際にも、僕は、建築の合理性や耐久性、機能性について先鋭的に説明をしていた。

しかし、氏は途中で突然僕の言葉をさえぎり、一言・・・、合理性、耐久性、機能性・・、と建築を説明する必要はない。建築家の君に頼んでいるのだから、それはできていて当たり前でしょ・・・。いかに面白く、かっこよく、そして美しいかを伝えてほしい・・・ 。との事。

困った僕は、模型を見つめて一言、ご覧の通りです。と伝えたところ、了解、これで行こうと言われた。

今まで経験した我々の最短の伝説的プレゼンであった。

後日、仕事の進捗状態の報告の後の飲み会で、あれこれ話が込み入っている中で、つい僕の発した、普通が難しい・・・という言葉に氏が一言。普通ができなくてどうする。普通のこともできないようなら仕事を変えろとのこと・・・。あいもかわらず激しい・・・。

僕は確かに普通は最も難しいと考えている。どんな特殊な状況や条件でも普通に見えるように、いかにもがんばっていますというようなジェスチャーのあるデザインをを可能な限り排してゆきたいと考えている。・・・つもり。そして、僕自身の物事の判断基準も普通であるということが一つの指針である。だから、時に普通であることが最も難しいのだ。だから何気なくそんな言葉を発してしまった。

が、氏が考えるには普通であるかどうかなどではなく、当たり前のことを当たり前のように粛々と積み重ね、勝負は違うところでしなさい。と。

つまり正々堂々と美しさについて議論しなさいということ、であった。

確かに僕は、美しさの基準とは人それぞれ違うからというあまり、話題には出さないことが多い。もちろん提案の内容や建築の美しさについてぎりぎりまで、そして最も高いプライオリティで美しさについて考えている。ではあるが、プレゼンではどうもそれを前面に言葉にすることはない。自信がないわけではないが、氏はそこが不満だったようだ。

ここで思い出したのが、異性の魅力について二つの側面がある、ということ。

一つは誰が見ても美しかったり、スタイルがよかったり、運動能力が優れていたりというような一般的な魅力。

もう一つは、例えば丸い顔が好きだったり細長い顔が好きだったり、グラマーな人がよかったり、細かったり、太めだったりと個人により魅力の判断が分かれる魅力。

それぞれ両方とも自身の遺伝子が欲しているものではあるが、前者は遺伝的に他者より優良な子孫を残したいという遺伝子のプログラムによるということ。そして、後者は自分の遺伝子との組み合わせにより、よりよい子孫が残せるという、それぞれ自身の遺伝子のプログラムによるとこであろうかと思う。

僕自身のプレゼンがこの後者に関る、施主自身のとって・・・という個人的なところ、つまり施主自身との組み合わせばかりで、氏には物足りなかったのだということだ。大事なことはそれだけではない。美しさや、街や、風景や、もっと大きな枠組みや価値観の中での施主の建築について議論したいということであったということ。

単純な僕は、次回はもっと美しさやカッコよさについてを前面に出してプレゼンしようかと思っている。

座右の書

2009/5/4 月曜日

僕の趣味は読書である。確かにたくさんの本を読んできた。しかし、記憶に残る本というものはそういくつもない。特に、度重なる引越しで、そのつど多くの本が淘汰されてきた。そんな中、この20年にわたり片時も僕のそばを離れなかった本がいくつかある。

その一つ、原広司さんと言う建築家が著した『空間-機能から様相へ』という本がある。

内容はかなり難しいのだが、簡単に言うと・・・、

空間というものは目の前に絶対的なものとして存在するのではなく、人がその空間を経験した際、事後的にその人の意識の中に現象するという考え方。つまり、空間はその人の経験や感性、趣味などによって様々な様相を見せるという概念であり、空間というものは、その人個人個人の歴史や経験によって様々に解釈され、その様々な様相を個人個人の意識に誘発する媒体に過ぎないというものである。

確かに氏の設計した建築は、光の反射や屈折によって、あるいは季節や天候によって、様々に豊かな表情を表出する。その表情はまさに現象的である。そのようなことを西洋哲学から東洋哲学まで幅広く参照しながら縦横無尽に論じている。

きちんと理解しているとはいえないかもしれないが、この本を僕がどのように理解、時に誤解や誤読があろうが、それは僕自身の問題であり、まったく問題ではないと言う事になる。つまり僕にとってこの本は僕自身に何か考えたり、アイデアを与えてくれる単なる媒体としてのみ有効であるということだ。何と太っ腹。素晴らしい。

確か「創造とは記憶である」というのは、かの黒澤明の言葉であったかと記憶している。
つまり、人の感覚や意識はその人の記憶や経験によってのみ顕在化され、それはその人それぞれのものであり、決して単一なものにはなり得ない。だからこそ、多様性を許容する空間やアイデアは豊かなものといえるのであろう。

この本でもう一つ知ることになる概念が、ブリコラージュという概念であった。

要約すると、身の回りにある既存の技術や道具を使ったり、組み合わせることによりまったく新しい必要なものを作り出していく創造のプロセスのこと。

この概念は自分のできることの限界を示しつつ、それを乗り越える手立てと勇気を与えてくれる。

今まで何度読んだか判らないが・・・、そのたびに新しい感覚、刺激を与えてくれる素敵な本である。

ありがたきこと

2009/4/27 月曜日

先日オープンハウスを行った。いらしていただいた皆様ありがとうございました。
その中で、予想外だったのは、以前お世話になった施主さんが見えたこと・・・。おっ芦屋君、スキルを上げたね・・・。とか、ここは自分の家のほうがよいねとか、自分の家はどうしてこうしてくれなかったの?とかそんなきびしいかんじでしたが・・・。それはそれで楽しかったです。
大きなお世話なのかもしれないが、僕は以前お世話になったクライアントの現在が気になって仕方がない。最近、そのうちの一人の方が結婚されたと聞いた。これはうれしかった、クライアントはかなり才能豊かな魅力的な人だが、お嫁さんが来たのだ。建築が本当に彼らの生活になってきたということだと感じる、感動の瞬間である。他にも跡継ぎに息子さんが帰ってきたとか、独立して生活していた娘さん3人が新築したと同時に家に戻ってきてしまい、大変なことになってしまったとか・・・、彼女たちはしばらくして結婚されて羽ばたいていったが。。。、そんなことを聞くのがとてもうれしい。
昔お世話になった施主に、竣工したときに言われた一言・・・、これまで二人三脚で付き合ってくれ、色々あったけどご苦労様。だけどね、今はありがとうとはいえない。家とは5年10年たってからはじめてその価値がわかってくる。そうあるべきだよね。だからこの僕らのこのプロジェクトが成功したかどうかは今は未だ判らない。判ったときに改めて御礼を言うよ。との事、かなり厳しいが、その通りだと思う。今でもその施主さんには良く会うのだが、会うたびにダメだしをしていただいている・・・。おかげさまで今では竣工引渡しは僕にとって何のイベントでもなくなってしまった。顔では嬉しそうにしつつも、お楽しみはこれからだぜ・・・と思っている。本当に可愛くない天邪鬼ぶりだが、そのときの施主の言葉が今でも忘れられない。だから、そんな風に結婚したとか、家族が戻ってきたとか、増えたとか聞くとはじめてなんとなく、現場での凄惨に血塗られた歴史を封印し・・・、肩の荷を降ろしても良いのかなとひそかに思う。

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