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カエルということ。

先日、母校を訪問し、我が恩師に会って来た。

僕がこの仕事を目指したとき・・・、就職、つまり建築を始めたとき・・・、留学や退職を決めたとき・・・、そして自身の事務所を立ち上げたとき・・・、常にその恩師の眼前で意を伝え、そして行動してきたように思う。

母校で学生達に話をしながら、自分が教わってきたことを思い返してみた。なんだか講義より、よほどそちらに集中してしまったような・・・。

僕が学生時代に恩師に教わってきたこと・・・、そして今でも仕事を通じて最もこだわること、それは建築とかそういうことではなくて、建築設計者としてこだわるという意味だが・・・、それは、自身のこだわりも大事だが、時には躊躇なくアイデアや図面を”変える(変更)””換える(ゼロからやり直し)””代える(良いアイデアを頂く・・・)”という3カエルである。だから僕のお守りは緑色なのである。どうでもよいですが・・・。

恩師には大学3年次、4年次にお世話になった。恩師の設計事務所でアルバイトをさせてもらったり、研究室の仕事を手伝ったり・・・、それなりに目をかけていただいていたような気がしている。そして、4年次、同窓の皆それぞれに就職が決まっていった最中にも進学?就職?と・・・のんびりとすごし、時はすでに9月、僕は意を決して恩師の時間を頂いて、黒川紀章さんの事務所を希望している旨を伝えた。

恩師は一言、まずはポートフォリオをまとめなさい、このままでは難しいよ・・・。と。

このポートフォリオというのは、自分自身が学生生活を通じて設計課題や研究をまとめた図面やスケッチ、模型をわかりやすいように冊子にまとめたもので、この冊子にすべての技能、自身の思想や思考、気持ちと気合をこめるのだ。

しかし逆に考えればこの冊子を上手にまとめれば何とでもなる・・・?、いやいや、ごまかしや不正はすぐに見破られる。ものづくりにかかわった人ならわかるだろうが・・・線の1本にもその人の個性が現てくるし、ポートフォリオは自身の分身みたいな存在なので、そのポートフォリオを前に一言でも話をさせればすべてが了解されるという、DNA鑑定並みにすぐれたものである。

僕はこのシステムが結構気に入っている。能力があり、それを必要とされるならば日本はおろか世界中のどこでも仕事を得ることができるのだ。実際、特に海外の学生はそうしている。素晴らしく公平でフラットなシステムである。

閑話休題

話を戻して、恩師の一言から僕の苦悩は始まった。なんども何度も図面を書き換え、作り変え、修正し・・・、もうどうにもならなくて自身で一つの課題をでっち上げそれをまとめたりしながら繰り返すこと1ヶ月少々・・・、恩師のまあね・・・、の一言。
そして次には師の師である教授にポートフォリオを見せに行った。

恩師の師、教授も現役建築家なのだが、一言、話にならんね・・・、と。
こんな急な階段どうするの?こんな長い廊下どうするの?コンセプトとかデザインとか言う前にそんな基本をちゃんと身に付けてください・・・と。

正直泣きました。場所は市谷の駅前です。防衛庁(当時)のあるところです。三島が割腹自殺をしたところでもあります。僕もしようかとおもいました。今でも市谷には近付けません。

ということでそこから苦悩の第2回戦・・・、図面の修正と追加・・・。そして2回目、まあこんな物でしょうの一言で中断・・・。(教授も忙しく、僕のような学生とは付き合っていられなかったのでしょう。)その後、めでたく黒川事務所の番頭さんに図面を見ていただく機会を与えられ意気揚々と。修正と作り変えでもはや原形をとどめていない、つまりは捏造した図面を抱えて面接に向かった。場所は市谷から青山へ移る・・・。

面接では、番頭さんのAさん(この方はその後の僕の師となる人でした)が僕の図面を見ながら、ここは納まっていないね・・・ここには一貫性が感じないね・・・、さらには、ここはスペルが間違っているよ・・・、と散々な批評でした。まあそれでも、2次面接として黒川さんに会って行きなさい、ということ・・・、何とかクリアしたようである。

後日黒川先生との面接、悲しいかなせっかちに僕のポートフォリオを15秒で見終わり、そしておもむろに手紙を取り出して読み始めた。そして一言、神谷さん(教授)の学生かい、来年からよろしく頼むよ、の一言。どうやら採用が決定したようである。バブルもはじけた・・・92年のクリスマスのことでした。

僕の恩師の師である教授は黒川先生の丹下健三研究室時代の先輩に当る人で、黒川先生とはいえなかなか頭の上がらない人なのでした。(後日知りました)特に教授は当時原宿の代々木のオリンピック体育館の設計責任者だったということで、確かに黒川先生より数年年長なのだからそういうことかと・・・・。ということでめでたく就職が決まった。

仕事を始めて1年後・・・、番頭のAさんにどうして僕を採用したのですか?とたずねたところ・・・、
俺がお前の図面をボロカスに言ったあと、お前は”ハイ図面を修正してまた来ます”といっただろう。お前はバカだな・・・。けど建築っていうのはチームワークなんだ、デザインがうまいとか、物事を理路整然と考えられるとか、そういうことを学生(お前)に求めたってしょうがないだろう?だからまづは素直さだ、俺がお前に期待したのはまづはチームとして働けるかどうかということ、それだけ!!。

とのことであった。ずいぶんシンプルではある。そして癖とは恐ろしい・・・。

当時、すでに僕は自身のアイデアや図面、成果品を変えたり修正したり、気持ちが折れる寸前まで追い込んでゆくとそれなりによくなっていくものだと・・・体感し、そしてその時にはすでに”カエルの心得”を会得していたのだ。ギリギリなほど良い効果が得られるというほぼマゾヒステックな感じである。だから、今でも度々要請される、否、・・・日常的に強要される変更することの要請はむしろ喜びでもある。そう、”もしかしたらそこに何かがあるかもしれない”と、それを導いてくれているのかもしれないと・・・。

多分自己満足だとも思うが、結局建築には正しい解答やこれでよいというものなどないものだから、自身がよいと思えるまで徹底鉄尾やるしかないのだ。

そして今では締め切りというヤツに追い回されて入るようにも見えるが、実のところ僕の締め切りは決して図面納品やプレゼンなどではなく、建築ができる瞬間まで続く・・・と考えている。そう、締め切りなどは通過点でしかない。かなり反社会的で大人げないとは思うが、仕方がない。建築の竣工が締め切りである。

”より良くするには変え続けるしかない。””悩み続けるしかない。”たとえ一瞬かもしれないけど光を求め続けるしかない・・・、のだ。(ほぼすべて一瞬の瞬き、幻想、幻覚である・・・。わかってはいるが・・・。)

今でも、黒川先生の後姿を見ながら自身で最も影響を受けたな、と思うことは”躊躇なくアイデアを変える”ということだと思っている。

長くなってきたので、ここまでにします。

ちなみに・・・僕のポートフォリオは今でも完成していない。僕のポートフォリオを見て頂いたすべての師のコメントはまあこんな物でしょう・・・か?。という感じで中断されたまま・・・、そう悲しいかな未完のプロジェクトなのだ。

そしてもう一つ、学生時代の私の設計課題の成績は正直かなり良かったです。ここだけは誤解なきように・・・何卒よろしくお願いします。
なんだかもう遅いような気がしますが・・・、私はそう信じています。卒業式には表彰もされましたし・・・いくつかの学生コンペで賞もいただきました。

ただ、僕が黒川先生に採用してもらえた理由は教授による黒川さんへの手紙によるものだったのかもしれません。我が恩師がそのまた師の教授へ、僕の気持ちを伝えてくれたからでしょう。そうに違いありません。

今こうして書いていると20年前のことが鮮明に思い出されます。本当に感謝しております。