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木造3階建て住宅が竣工しました。

現在、木造3階建て住宅のプロジェクトを数件進めている。

木造の3階建てにはいくつかの理由があるが、すべてに共通することは敷地の条件が厳しいことである。大方3方向は隣家に近接し、採光、通風などの条件を整えることが困難である。残りの一方向が前面道路である。構造的にも難しいし制約も多い。

木造を選択する理由については、地盤がゆるくて木造による建築の軽量化を期待・・・、前面道路の狭さにより大きな重機が入りにくいこと・・・、もしくはそれに多くの経費を費やさなくてはならないこと・・・、さらには総額予算の中でのコストパフォーマンスの問題によることが上げられる。

敷地に対する建築の配置や形状は、ほぼ敷地境界線を500mm+αの距離でセットバックすることにより建築の外郭形状はオートマティカルに決定される。そしてその中にいかに・・・。

建築は森羅万象を感覚する皮膚、衣服の延長としての第二の皮膜である。
さらには外部環境から肉体を保護する皮膚に次ぐ第二のシェルターである。

この最もシンプルな基本条件のみを追求することにこの木3シリーズの醍醐味がある。幾たびかこのブログで申し上げているように、僕は厳しい条件、つまりはこの不自由さが大好きではある。そのがんじがらめの制約の中に施主の想像を超えるような桃源郷を出現させることが設計者としての目標であり作法である。

具体的に、建築には敷地条件や施主の要望に対してある種の誇張、フィクションを要請する。
例えば、今回では敷地、隣家のコンディションに対して、開口部を設けるという行為を通じて新たな生活の場を活性化させるフィクションの導入を誇張を意図した。

誇張と言うと聞こえはよくないかもしれないが、リアルな生活に対するリアルな計画には夢はないと思う。つまりは機能性のみに対応する機能的な住宅、今までの習慣だけに根付いた計画では新しい、つまりはその家族にとっての新たな未来への生活の場にはならないというように考えている。

VIVA誇張!ウェルカム誤読!!サンクス曲解!!!・・・と言う感じである。

ゴダールの映画で、アルファビルと言う作品がある。フィクションとリアルな世界を行ったりきたりする中に新たな発見を見出して行くような映画だったと記憶しているが、まさに、リアルな生活の中にフィクショナルなデザインを織り交ぜてゆくことこそが、新たな生活の場に刺激や未来を生成してゆくのだと思っている。フィクションを通じてリアルな生活に新たな価値を付与すると言うことである。

例えば、資本論というマルクスの古典がある。内容は難解で理解することは常人では難しいらしい。僕は読んだことはないし、読めるとも思わない。それでも今でもこの本が一つのメルクマールであるらしい。
それは何故か?きっと様々な解釈や価値を時代に合わせて常に生みだし、読んだ人にとってもその人なりの多様な解釈を許容するからだと思っている。つまりは誤読や曲解を常に発生させるジェネレーターなのだろう。もちろん、その本の内容は深遠至極なのだろうが・・・。

建築もこうありたいと思う。だから、曲解や誤読、そして誇張を通じながら常に新しい価値や、ハプニングを建築の中に内包させる事は設計者にとって大事な作法である。解答は施主自身がそのつど生み出してもらえればよい。そのときには生じなかった新たな使い方や感じ方を10年後の未来に感じたってよい。そんな包容力が建築には大事だと思っている。ただ、使い勝手がよいだけでは満足できないのだ。それは設計者のエゴだと言われてしまえばその通りかもしれないが、少なくとも僕に設計の依頼をしてくれる施主にはそんなことを期待されていると勝手に考えている。なにせ、建築の方法には正解はないのだから・・・。

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と言うことで、まずはその一つ目のプロジェクトが竣工した。プロジェクトの間ずっと机の前にはひまわりの写真を置いて、ひまわりと対話をしながら進行してきた。ひまわりは常に日光の方角を向いて咲くからである。彼女には本当に色々と教えていただいた。

原広司という建築家がいる。彼は建築の定義をこう示している。
最初に洞窟のような閉じた空間がある。そしてそこに穴を開けること、つまりは開口を設けることが建築行為であり、それが建築であると・・・。
すばらしいではないか。このシンプルすぎる定義におよそ20年前から僕は撃たれたままである。

彼は建築を有孔体と命名している。そして僕はそれに習うように、この敷地に対して従順な矩形にいかにして穴を開けるか、そしてその穴からいかに、日光と風を導くかのみに集中して計画をした。

上記は3階のプランである。この住宅では3階に家族のためのリビングとダイニングキッチンを求めている。

建築の形状は、敷地の形状をなぞるかのようにシンプルな矩形として設えている。そしてその南面には隣家との距離感を確保するかのようにインナーバルコニーを設け、隣家の屋根の上に浮かんだリビング空間、もしくは隣家の屋根勾配を小高い丘に見立てたあたかも外部空間のような開放的なリビングルームとしている。

北東の角には、前面道路に対して直行方向になるように、建築の角を少々削り落として角度を持った大きな開口部を設けている。
隣地には将来的には何が建つかも予断は許されないが・・・、前面道路は文字通り永久に何も建たない。
だから、道路に沿って視線が抜けるように開口を設ける。窓の正面が隣家では淋しすぎる・・・。単純すぎるかもしれないが・・・、だから斜めだ。
信頼できる隣地、借景は公道か墓地のみである。これは僕のが心から信じる数少ない真実の一つでもある。
また、この窓からは東からの朝日がふんだんに取り込まれ、まさに朝食のためのダイニングとなっている。キッチンからは作業中もこの抜けのよい景色が常に楽しめる。

階段の正面の開口部は隣家の隙間を利用して視線の抜けを確保している。
ちょうど隣家どおしの敷地境界に当る箇所なので、こちらも視線の抜けは永久に保たれることであろう。階段とその視線の抜けは大事である。
エゴンシーレの美しい絵画も階段を昇降しているし、ローマの休日のヘップバーンも、風とともに去りぬのスカーレットも階段を背景にそのたたずまいを描写されている。
つまりは階段には美学が宿るのであり、階段はそのために存在すると言っても過言ではない。
と言うことで、階段には常に大きな空が見え、そして明るく上昇感、期待感、高揚感、さらにはエクスタシーを導く場でなくてはならない。

南西の角にも400mm角の窓を設けている。この窓も隣家との境に位置し、はるか向こうになんと富士山が見えるのである。
ここは川崎市であるが、このことに気が付いた時点でプロジェクトの5割は終了したと言っても過言ではないほど、つまりはこの建築の形状に必然性が付与された瞬間でもあった。

以上が、この住宅の計画についてである。

我々にとって常に意識している、建築の形状とその必然性、成り立ちをシンクロできたのではとひそかに思っている。

この建築の設計の機会をいただいた施主さんに感謝します。我々はこの建築が、皆さんの朗らかさにブースターをつけるかのような住まいになるのではと確信を持って引渡しをできたことは本当に幸せです。ありがとうございました。

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朝日があふれるダイニングキッチン。斜に設えた窓からは前面道路に導かれるように景色が広がる。

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隣家の屋根が丘のように連なる風景を借景のように取り込むリビングルーム。

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太陽が光臨する階段。

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隣家の隙間をぬうように、富士山を望む窓。